あなたは日本のウイスキーの品質はかなり高いということは知っているでしょうか?
実は、日本のウイスキーはジャパニーズウイスキーとして分類されて、世界五代ウイスキー(スコッチウイスキー、アイリッシュウイスキー、アメリカンウイスキー、ジャパニーズウイスキー、カナディアンウイスキー)のうちの一つに数えられるほどの人気と品質を持っています。
かつてはジャパニーズウイスキーはウイスキーではないという評価をされることもありましたが、今ではかなり高い評価を受けるようになりました。
例をあげると、2001年のウイスキーマガジンではシングルカスク余市 10年が世界のウイスキーで最高の評価を獲得しました。
さらに、海外の人気から原酒が不足するよう
になり、人気過ぎて製造中止になる銘柄も増えてきています。
2018年は響 17年、白州12年。
今回はそんなジャパニーズウイスキーの歴史と魅力をご紹介します。
日本のウイスキーの歴史
ウイスキーが日本にやってきた!
ウイスキーが日本に持ち込まれたのは、江戸時代末期のペリー来航の際と言われています。浦賀にてサスケハナ号の機構の際に振る舞われたと言われています。
また、時の将軍、徳川家定にも振舞われたという文献も残っています。
日本でのウイスキーの広まり
日本でウイスキーが広まったのは1858年の日米修好通商条約の締結直後と言われています。
開港された港近くに外国人移住区が誕生し、そこに住んでいる人が取り寄せたのがきっかけです。
また、日本人の口に入るようになったのは1860年に創業した日本発の西洋ホテルの「横浜ホテル」と言われています。ここのバーではウイスキーが振舞われたとそうです。
日本人が日本人用に取り寄せた最初のウイスキーは「猫印ウイスキー」というウイスキーと言われています。
日本でウイスキーを作ろう!
ジャパニーズウイスキーはいつ誕生するのでしょうか?
それは明治末期から大正時代です。
この時代には多くの人々がウイスキー製造にチャレンジをしました。
しかし、その品質はお世辞でもいいものとは言えず、見よう見まねでやってみた模造ウイスキーでした。
ここからジャパニーズウイスキーへの道が始まります。
このジャパニーズウイスキー誕生に欠かせないのが、現・サントリーホールディングス創業者の鳥井信治郎とニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝です。
きっかけは大阪にある摂津酒造から始まります。
摂津酒造の阿部喜兵衛は日本のウイスキーと海外のウイスキーの違いを残念に思っていました。
本当のウイスキーはもっと香り高く美味しいのに、このままだと、日本ではこの模造ウイスキーがウイスキーとして人々に認識されてしまうことを恐れて、日本人も現地でウイスキーの製造法を学んでくるべきと思い始めました。
すると、阿部喜兵衛は若い従業員をスコットランドへ留学させることに決めました。その従業員が竹鶴政孝です。のちにジャパニーズウイスキー父とまで呼ばれる彼も当時はお酒作りの知識はあまりない青年でした。
ただ、阿部喜兵衛は彼の持つ反骨精神や好奇心の強さは最適だと考え、竹鶴を留学させます。
竹鶴のスコットランド留学
竹鶴政孝は1918年に神戸港を発ち、スコットランドへ留学しました。
グラスゴー大学で化学を学ぶ他、図書館でもウイスキー作りについての資料を読み漁り、ノートにひたすら書き出しました。
知識は申し分なく付けることが出来ると思った竹鶴政孝ですが、本人はそれでは満足せず、製造の実務を覚えたいと考えるようになりました。
しかし、蒸溜所へ行き頼み込んでもなかなか製造法を教えてくれるところはありません。
しかし、蒸溜所周りを諦めず続けていると、ホワイトホース社が雇ってくれることになりました。
1920年竹鶴はホワイトホース社の蒸溜所で製造方法を学び始めました。始めの方こそ、従業員から冷たい扱いを受けていましたが、竹鶴の熱意が本物であると知ると、しだいに認められていきます。
そして、そこでの3ヶ月の修行も先ほどのノートにまとめ上げ、ウイスキーに関する知識と実務経験をまとめ上げたノートが誕生したのです。これが「竹鶴ノート」です。
このノートこそジャパニーズウイスキー誕生の根幹です。
ちなみに、このノートは現在、ニッカウヰスキーの余市蒸溜所に保存されています。
そして、竹鶴政孝は満を持して日本へ帰国します。
早速日本でウイスキーに取り掛かろうと息巻いて神戸の地へ下りましたが、なんと、竹鶴は摂津酒造を退社しなくてはならなくなりました。
理由は、当時の不況です。
戦争特需が終わり、不況が訪れていたのです。摂津酒造もその影響を受けていたのです。
せっかく、ウイスキーの聖地で知識得てきたのにそれを活かせないでいる竹鶴政孝を救ったのが、鳥井信治郎です。
日本発のウイスキー製造開始
鳥井信治郎はポルトガルワインをいち早く取り入れ、それを独自に改良した「赤玉ポートワイン」で成功しており、会社は不況を感じさせないほどに栄えていました。
そして、次のステップとして日本でのウイスキー作りを考えており、スコットランドから製造技師を雇おうと考えていた時に耳にしたのが竹鶴政孝の存在です。
こうして、鳥井は竹鶴を雇い、ウイスキーを始めます。そして、2人の議論の末蒸溜所の地として選ばれたのが大阪の「山崎」です。
山崎が選ばれた理由は、
山崎はかつて、千利休が茶室を構えるのに選ばれた場所であり、名水で水質が非常に良かったこと、川が三本流れていて、霧が出来やすくウイスキー作りに適していたという2点が挙げられます。
山崎蒸溜所の営業開始
こうして、1924年念願の山崎蒸溜所が誕生。
ウイスキーの製造が始まりました。
山崎蒸溜所で「白札」(現在のサントリーホワイト)、「赤札」(現在のサントリーレッド)を販売します。
結果はというと、惨敗に終わります。
価格が高いということや、ピート香が当時の日本人には合わなかったことが原因でした。
こうした失敗を重ねていくうち、竹鶴と鳥井は意見の食い違いが起こることが増えてきます。
それもそのはず、竹鶴はスコッチウイスキーのような本物のウイスキー作りを目指し、鳥井は日本の料理にあったウイスキー作りを目指していたためです。
1934年、竹鶴は10年勤めた鳥井の会社を退職することになります。
竹鶴は自分が考える理想のウイスキー作りをするため、ついに自らが会社を設立します。
それが、ニッカウヰスキーの前身「大日本果汁株式会社」です。
そして、竹鶴はウイスキーの製造をを北海道の余市で始めることにします。
1936年にウイスキー作りを始め、1940年ついに「ニッカウヰスキー」を販売します。
最初は竹鶴の妻が敵国イギリス人ということもありなかなか売れない日々が続きました。
一方、数年後に鳥井も1946年に「トリスウイスキー」を1950年に「オールド」を販売開始します。
こうして、竹鶴政孝、鳥井信治郎の活躍で、ウイスキーが一般の消費者も手に届く価格になりました。
昭和30年代カクテル・バーが流行してウイスキーは大人気になり、ジャパニーズウイスキーは日本中に広まりました。
ジャパニーズウイスキーの魅力と特徴
ジャパニーズウイスキーはスコッチウイスキーを参考に作られているため、種類はスコッチウイスキーに似ているという特徴があります。
また、その香りは複雑で、繊細な味わいと言われています。
日本人の嗜好にあったウイスキーを目指したのでピート香を抑えられたものが多く、匂いはスコッチウイスキーより強くありません。
とは言っても、ピート香が強いウイスキーを作っていないわけではないので、ピート香を楽しめるジャパニーズウイスキーもあります。
また、日本のウイスキーは製造を一貫して行います。海外の場合は分業化されており、蒸留担当の会社や、樽詰めの会社など分かれていますが、日本は製造を全て一社が行うため、品質が非常に安定しています。
この事も今ジャパニーずれてウイスキーぐ注目されている理由です。
オススメのジャパニーズウイスキー
山崎
日本が世界に誇るウイスキーそれの筆頭がこの山崎です。
クセが少なく飲みやすく、華やかで深みのある日本人好みの味わいです。
熟成にはワイン樽とミズナラ樽を利用しています。これによって飲みやすさを維持しつつ、程よい華やかさと深みを与えています。
飲み方は、食中であれば、ハイボールがおススメです。
加水する事で、華やかさが膨らみまし、炭酸でスッキリと飲めます。
ただ、山崎の華やかさと深みを味わうのであれば、やはりストレートかロックがオススメです。